講義
2021年12月16日

最終講義「ソルと私」2020.12.21

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最終講義2020.12.21

昨年1221日に行った洗足学園音楽大学での最終講義です。

一年を経て大学より公開の許可が出ましたので、
録音を元に再構成しました。
 

「ソルと私」

 皆さんこんにちは。今日は私の最終講義をすることになりました。

 私が洗足に奉職したのは2002年の 4月です。それから19年になろうとしています。その前は日大芸術学部で教えていました。きちんと数えたことがないのですが、今年度の卒業、修了生を含めて両校で60人ほどの クラシックギター専攻生を世に送り出しました。その内の40人以上がプロとして活動しています。

 私の講師生活も、初めてドイツの 音楽学校で教え出した時から数えますと45年になります。知らぬ間にずいぶん年月が経ってしまったと言うのが実感です。

 さて最終講義のタイトルは「ソル と私」としました。今日の受講生にはクラシックギター以外の専攻生もいます。ソル と言っても「誰?」と思う人もいると思いますが、私が最も敬愛する作曲家だと言うことで、ご理解ください。

 フェルナンド・ソルは1778年スペインの バルセロナに生まれました。ベートーベンの 8才年下、私より172才年上です。この頃のスペインはスペインブルボン王朝のカルロス3世の時代、フランスではルイ16世が王位についたばかりの頃です。

 ソル は、幼少より音楽の才能に恵まれたようですが、父親は音楽家になることにはあまり賛成していなかったようです。その父がソル 11才の時に亡くなります。経済的な理由もあって母親はソルをバルセロナ近郊の モンセラート修道院に預けます。モンセラート修道院は現在世界遺産になっています。また音楽でも「朱の本」で有名な中世からの伝統を持つ重要な宗教施設です。そのモンセラート修道院でソル は徹底した音楽教育を受けます。彼は非常に優秀でオーケストラの 指揮者にも任命されたようです。

 しかしソルがモンセラートで6年余を過ごしたころ、母の意向で音楽家ではなく軍人への道を歩み始めることになります。しかし軍隊では軍人というよりもっぱら音楽の才能で地位を築いていったようです。その証拠に19才の時に発表したオペラ「カリプソ島のテレマコ」はバルセロナ劇場で15回も上演されました。それ以後35才までスペインで活動します。すでにギター曲も多く手がけ、作品14のグラン・ソロや作品11のメヌエット集、作品15のソナタと変奏曲、作品224楽章の ソナタもスペイン時代の作品と考えられています(出版はスペイン脱出以降)

 そんなソル に転機が訪れたのは1808年の ナポレオン軍のスペイン侵攻です。ゴヤの有名な絵画「180853日」で知られるように、この年スペインはフランスの支配下に入ります。はじめはスペイン側にいたソル もそれまでのカルロス4世の 圧政に反発しフランス側の 立場をとるようになります。ところがヨーロッパでのナポレオン軍の衰退に伴い1813年にフランス軍がスペインから撤退すると「フランスかぶれ」と呼ばれたスペインの 進歩的な思想を持った人たちは母国に居づらくなり、国境を越えフランスに逃れます。ソル もその一人でした。

 1815年フランスからロンドンに渡ったソル はそこに7年間滞在しギタリストとして、また歌曲作曲家として活躍します。有名な作品9「魔笛の主題による変奏曲」や作品6の練習曲集もロンドンで出版されました。また1822(44)に発表したバレエ「シンデレラ」は大変好評でロンドン王立劇場公演の後パリ・オペラ座で104回も上演されました。その頃知り合った若きバレリーナ、フェリシテ・ユランと結ばれユランのモスクワ・バレエの プリマ・バレリーナ就任に伴って1823年モスクワに渡ります。実はこの時、おそらく死別した前妻との間の幼い娘も一緒でした。

 モスクワでも「シンデレラ」など少なくとも4曲の バレエを作曲上演、ロシア皇帝の 葬送行進曲を作曲するなど作曲家としても活躍する一方、多くのギター曲をフランスの メッソニエから出版しています。

 3年余の モスクワ滞在の後、ソルは1826年末か1827年はじめ娘と共にパリに戻りそこに定住します。ユランは一緒ではありませんでした。ソル 50才の時です。この頃のソル はギタリストとしてもバレエ作曲家としてもかなり多忙でした。ギター曲も作品24以降どんどん出版されていきます。

 この時代のフランスはナポレオンによる帝政を経ていわゆる復古王政の末期でした。この頃のパリはユゴーの 「レ・ミゼラブル」に描かれています。そして1830年七月革命が起こります。しかしソルと革命との接点は見出せません。この年ソル は「ギター教則本」を出版しました。演奏活動も盛んでパリの 音楽新聞にも度々取り上げられました。

 しかし50代も後半になるとソル 活動は演奏よりも教育へとシフトしていったように思われます。作品は出版社や購入者を意識して弾きやすさを重視するようになりました。かなり皮肉屋だったソル 1832年に弾きやすさを重視した作品476つの小品」を出版した後、まだ難しいという評価を受け作品48に「これならよろしいか?」作品51に「ついにやった!」というタイトルを付けました。中には作品52「村人の幻想曲」作品54「モルソー・ド・コンセール」作品59「悲歌風幻想曲」など難曲もありますが、作品60「練習曲集ギター練習への入門」に代表される技術的には容易な作品も多くなります。しかし、少ない音、容易な技術の中に非常に洗練された和声と深い情感を感ぜずにはいられません。

 1837年ソル 59才の6月娘のカロリーネが20才位の 若さで亡くなります。18396月、二人のスペイン人紳士がソルを訪問し、その後バルセロナの新聞に「最晩年のソル への訪問」と題した記事を発表しました。これによって亡くなるひと月前のソルの様子を知ることができます。ソルは「癌に胸と喉を侵されていた」と伝えられました。

 まあ、ちょっと長々とソルの人生を語っちゃいましたけど、多分ギター以外の人はソル なんて知らないだろうと思って話しました。

 

 さて「ソルと私」ということで、私の事も話しましょう。私は1950年横須賀生まれです。小学校は横須賀市立豊島小学校。50人クラスが10組くらいありました。小学校入学少し前からくらいからピアノを習っていました。先生は小学校を退任されたおばあちゃんで、大きなお屋敷に住んでいて、ピアノの ある部屋は10畳くらいの畳敷で生徒は自分の番が来るまで正座して待ってました。ひとり何分くらいの レッスンだったか覚えていませんが、56人は待っていたように思います。すごく怖くて、間違えると物差しでバチんと手を叩かれます。私は咄嗟によけてしまったので、余計怒られました。そんなわけでピアノは嫌いになり、小学校ではスペリオパイプ(リコーダー)とかハーモニカを結構得意になって吹いていました。

 中学は鎌倉市立第一中学校です。横須賀から電車と徒歩で1時間かけて通いました。中学では同じクラスに音楽好きの友達ができ、朝、授業前に音楽室で勝手気ままに、その友達が持ってくるピアノの 楽譜を弾いて遊んでました。その後、ブラスバンド部に入り最初はトロンボーンをやりました。当時はまだ個人の楽器を持っているような生徒は少なく、私の中学は米軍(当時は進駐軍)払い下げの お古を使わされました。トロンボーンはピストンが曲がっていてまともに動きませんでした。それでトロンボーンは嫌いになり、自己流でテレビ番組の主題歌などを編曲しているうちに指揮をするようになりました。その後高校に行ってからも高校の部活はやらず週に2日ほど中学に通っていました。

 高校は神奈川県立湘南高校です。部活は吹奏楽部に入ろうと思い説明会に行きましたが、指揮をやりたいというと、指揮は3年生に決まってるというのでやめて、さっき話したように中学に通って偉そうに指導してました。今考えると大分生意気なヤツでしたね。一方家では独学でギターをいじっていました。高校3年になった頃、全く井の中の蛙で「オレは天才じゃないか」と思い密かにギタリストになろうと決心してしまいました。音大を受験しようと音楽の教員に相談すると、当時は音大にギター科はなく「バカもん、なに寝ぼけた事言ってんだ」と一蹴されてしまいました。

 ここから人生が狂ったわけです。それならとマンドリンクラブで有名な明治大学に入学しました。しかしマンドリンクラブは体育会系と言っていいほど先輩達が怖くて、それにギターはほとんどブンチャッチャばかりなので失望してギター合奏の クラブに入りました。あまり熱心な部員ではありませんでしたが、合宿や定演など楽しい思い出があります。同時に茅ヶ崎市にお住まいだった奥田紘正先生にクラシックギターを師事しました。しかし、しばらくすると大学紛争の 激化で学校はロックアウトされてしまい、私はこれ幸いとバイトとポピュラー音楽のライブ活動に明け暮れました。そうしている内に先生のお勧めでコンクールを受け入賞したのを機にクラシックギターでも演奏の仕事が入り、すっかり大学のことは忘れて放置してしまったので、どうやら学籍抹消という措置が取られたようです。

 1973年に東京第一生命ホールでデビューリサイタルをして、その夏ドイツへ留学しました。その後のことは公開しているプロフィールの 通りです。

 

 私がソルの曲を初めて知ったのは、先程話した奥田先生に推薦されたコンクールの 時です。予選のテープ審査がソルのOp31-16で、先生が選んでくださった本選の 自由曲がソルのOp.7の幻想曲からラルゴでした。それを契機にソルに惹かれ、留学したドイツでも初年度はソルばかり弾いていました。2年目の夏イタリアで行われたオスカー・ギリアの講習会に参加した時も、3回のレッスンに全てソルを持っていき、ギリアにフェルナンドと呼ばれてしまいました。卒業試験やその後のドイツでのコンサート、帰国してCDを出版するようになってからも必ずプログラムにはソルを入れて来ました。

 今回、私の集大成と言うかラストアルバムになりそうなソルの全練習曲(121)の録音が進行中です。当初の予定ではこの11月に発売の 予定でしたがコロナで大きく遅れ来年秋になりそうです。(ギターを見せる)そしてこれはソル も愛用したラコートギターです。この練習曲集の なかの2曲、Op.3135が出版された1828年に制作された楽器です。また私は現在、ソルが教則本で強く提唱した指頭奏法で演奏しています。

 

 では最後に「指頭奏法」についてお話ししましょう。

ギターやリュートは爪を伸ばして弾くか爪なしの指頭で弾くか、昔から議論されてきました。9月の「楽器と演奏論」の私の講義を聞いた人は覚えていると思いますが、古くは16世紀スペインのビウエラ奏者フェンリャーナがその「オルフェウスの 竪琴」という譜本の中で爪奏法と指頭奏法について述べています。彼は盲目の奏者で指頭奏法でした。ですから当然指頭に好意的な事を書いているのですが、それが私の大変好きな所ですので紹介します。「爪を使用すれば確かに技術的には安全だが美を伝える音楽家の能力を失わせる。指だけが、本当に生命あるもので、精神の意思を伝えられる」爪奏者が聞いたら(現在の殆どのギタリスト)ふざけるな!と言いたくなるような言葉ですが、ある一面を言い当てていると思います。以来178世紀のバロック時代、19世紀ソル やジュリアーニの 時代、そして19世紀後半から20世紀へと爪か指頭かの議論は続いてきました。私はドイツ留学中、副科ピアノの 試験のために短期間爪を切り、仕方なくギターを指頭で弾いたのが最初です。

 その後帰国して1980年代にラコート(今持っているものではありませんが)を手に入れ、コンサートと、雑誌にソルの奏法についての記事を書くために指頭を試しました。しかしその頃は、使用したガット弦がすぐ切れてしまい、とても実用には向かず断念した経験があります。今回は再びラコートを入手し、兼ねてから温めていたソルの 練習曲全集を実現するため、ソル 先生推奨の指頭奏法にしたわけです。

 指頭と爪の 優劣は一概には言えません。一般的には爪が圧倒的に有利でしょう。私は今回まだ爪を切ってから一年ですので大きなことを言う権利はないのですが、スピードや音量など機能性はやはり爪でしょう。では指頭の 強みは何か? 私には今のところ音の魅力としか言いようがありません。もう何年か経って、指頭奏法を続けていれば、具体的にお話しする事ができるかもしれません。

 しかし指頭奏法には思いがけない利点があります。それは音楽上ではなく生活上の 利便性です。世のギタリストは生活面で常に爪に関するストレスを持っています。私も50年間いろいろと苦労してきました。また、ギターを弾こうとする医療関係者、食品関係者、ピアニストや他の楽器奏者は少なからず爪に抵抗を感じるはずです。ギタリストもピアノを弾いたり料理をしたりする時に不便を感じてきました。私はこの一年そう言ったストレスからはフリーになっています。と言って料理をするわけではありませんが。

 大学を去るにあたって、私が最後の年にたどり着いた指頭奏法が大学の教育現場に、ギターの 持つ可能性を少しでもアピールできれば、これに勝る思いはありません。